母逝く
母が身まかりました。享年95歳で安らかな最後でした。
私にとっては、まるでドラマのシーンを見ているような一週間でした。
26日の午前に他界して、昨日初七日を済ませ東京に戻りましたが、
皆さんオーダーメールをしたものの、返事がなく、またブログの更新もなく、
買い付けの旅の疲れと大阪でのお宮参りなどで、私がダウンしたのではないかとご心配いただいていたようです。
また、TOPページをご覧になってお悔やみのメールを沢山いただいております。
この場を借りてお礼申します。
母は14日に私が海外から帰国するまでは家で訪問介護などを受けていましたが、
15日に酸素量が少ないとのことで、検査入院をしました。
25日に一時帰国している次男にあわせ大阪の神社で孫「ゆづる」のお宮参りがありましたので、
24日に母の病院に先に見舞いに行きました。
母は呼吸は少し苦しそうでしたが、元気に話しておりました。
私の手を握りながら寂しい、寂しい~と言うものですから夜10時まで、病院に付き添っていましたが、
明日早く大阪に行かなければならず・・・結果としてそれが最後になりました。
25日は秋晴れの快晴。
息子一家と、両家が集まってお宮参り
神主さまの祈祷など、一連の行事。
2ヶ月ぶりに抱いた孫の6キロの重みがずっしりと体に堪え、神主さまに、20分間我慢、我慢と言われ、
晴れ着に隠れた孫の足の裏を撫ぜながら、泣かさず耐えました。
息子夫婦が25日、26日一泊二日の「シェラトン都ホテル大阪」を予約しておいてくれて、
ホテル内でお宮参りの記念撮影をした後、孫を囲んでの楽しいお食事会でした。
26日にマレーシアに帰国する息子たちもホテルの部屋に来てくれてくつろいでいたところ、フロントからの電話。。。
予期しないサプライズ
お客様が訪ねて来られビックリ仰天。
それもお客さんのお母様
「どんなお召物?」と問いましたら、
「私はキラキラが大好きで、襟元にはチェコガラスのブローチをつけております」と
白髪の上品な方で、はじめてお会いしたのに、お土産もいただき、
ちょうどフロントに来た息子夫婦と夫にも紹介しました。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、
翌日部屋の窓から下を覗くと「大阪マラソン」が開催されていて1万人の走者
道路は規制されて、少々遅めのチェックアウトになり、大阪駅で切符を買い京都に向かう
車中で「母危篤」の知らせを兄から受けました。
その兄も26日は地区の老人会の会長をしていて旅行中で、舞鶴からの電話でした。
すぐに、タクシーに乗車して高速で病院に向かったのですが、二時間半ほどかかり、
母の最期の見送りはできませんでした。
私も最寄の駅からタクシーで飛ばしたのですが、既に母は天国に旅立ったあとで、
眠っているようで、穏やかな顔をしておりました。
母は最後まで気丈で多才な人でした。
母の部屋には、短歌を書いたノートや油絵のデッサン、毎日書いていた日記が整理整頓されていて、昨年から英語も勉強していたようで、簡単なスペルと会話のノートが置かれていました。
生涯学習、学ぶことが多いと、言っていた母
私の仕事にも、理解を示して応援してくれた母
私はアンティークを扱っているけれども、「あんたは人間のアンティークだね!」と冗談ぽくいうと、苦笑しておりました。
人の人生は短い、長いとものさしで測るものではなく、
その人生が充実したものであれば
幸せな一生なのです。
母はいつも前向きな生き方をしていました。
与えられたものではなく、自分のために。
95年間、ご苦労さまでした
そして、ありがとう。
今ごろは冥土で亡き父と仲良く手をつなぎ散歩していることでしょう。
合掌